ピースランニングその年も押し迫った師走の中旬、宮田監督から一通の手紙が届いた。それは、来年1988年夏、ネイティブ・アメリカンがアメリカ大陸を横断し日本を縦走するという、壮大なピースランニングの計画書だった。 手紙は、そのピースランニングのサポート要請でくくられていた。 手紙を読み終えた時点で、私の心は決まっていた。 「やるっきゃない」だった。 ネイティブ・アメリカンの教え(予言)が、大いなる海を渡り、太陽をシンボルとする国に最初に伝わり、その後、世界に広まるであろうことは、ホピの予言が語っていることだ。 四国と同じ大きさをもつ岩手県は広い。駆け抜けるのに1週間は必要だ。その間、本物のネイティブ・アメリカン達と一緒にすごせ、それに、ホビの予言の成就のために一助となれる・・・。 そのサポート要請を拒否する理由を見つけることは、私には不可能だった。 年が開け、2月、5月、7月と、東京で全国のピースランニングサポーターが集まり、ミーティングを重ねた。 そして、1988年、8月22日、ラコタのネイティブ・アメリカン、トム・ラブランクが我が家の玄関先にたったのである。 彼はこのランニングのリーダーの一人で、オーガナイズのため、本隊より先に岩手に入ったのであった。 ところが、極度の疲労のためか、彼は喘息発作をおこしてしまった。 彼、トム・ラブランクは、徴兵でベトナム戦争に参戦したとき、自軍の撒いた枯れ葉剤を浴び、それ以来、月に一度くらい、このような発作にみまわれるという笑えない身体の持ち主だった。 無論、私は鍼治療を行った。 当然のことながらと言いたいが、当時の私の鍼治療に関する実力(今のレベルを100とすれば、60程度か?あの頃は若かった・・・)からいえば、不思議なことがおきたのだ。 仰向けでの手足、腹の治療から背部の治療に移る頃、彼の咳が止まり、ゼロゼロ・・・と鳴っていた呼吸音もとまっていた。 私も驚いたが(お恥ずかしい)、トム・ラブランクは自分の実力以上の結果に驚いた私以上に驚いて、 「お前は今、何をしたんだ。マジックか?何があったんだ?」 と、自分の身体が楽になったことも忘れている様子だった。 この彼の体験が、翌年、私をアリゾナによぶきっかけとなったのである。 ジャンル別一覧
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